うに加工技術は下関の端玄界灘東隅に浮かぶ六連島という小島で外国人の船員がこの島の院家を訪ね歓談に講じていたある日、盃に注ごうとした酒が誤って小鉢にこぼれたことに始まる。
それを口に含むと以外にも美味であり、酒はアムステルダム・オランダ刻印のある度数四十五度のジンのボトルであったという。
院家は、さっそく六連島で一番の雲丹業者城戸久七(きどきゅうしち)にそれを試作させた。さらに城戸は研究を重ねながら、独自のうに加工の製法を極め雲丹製造の元祖となり、商号「雲丹久」とし全国に名声を広めていった。
上田甚五郎は十六歳のとき、城戸久七に弟子入りし、うに加工技術を学ぶこととなった。のち城戸久七七十五歳の時、将来の瓶詰めうに発展を思慮し、秘法である雲丹精製六十年間精進の奥義を甚五郎に授けたとされる。
上田甚五郎が三十一歳のときであった。その後甚五郎は雲丹製造元祖として城戸久七の偉業を受け継ぎ、加工技術の研鑽に専念した。
製造秘法の伝統は甚五郎創業の「うに甚」において現在まで守り続けられている。創業百年の粒うに元祖のいわれである。平成八年十月に、城戸久七翁の偉業を讃えて六連島は西教寺境内に、うに顕彰の碑を建立した。