<「安倍川もち」復活に奔走した山田一郎>
江戸時代からの伝統を誇る「安倍川もち」も物資の入手が困難になった戦中戦後において、すっかり途絶えてしまいました。戦後、静岡名物「安倍川もち」の一日も早い復活を目指して動き出したのが、「やまだいち」の創業者・山田一郎です。そこには単に名物の復活というだけでなく「静岡復興の証として」という大きな意味が込められていました。静岡駅での発売に成功した後も、パッケージを工夫して、一人前ずつ小分けにした商品を売り出すなど、お土産としてよりお客様が持ち帰りやすいよう工夫を重ね、全国に静岡名物「安倍川もち」を広めるのに大きな役割を担いました。「安倍川もち」の製造販売に奔走するなかで、いくつものエピソードが残っています。
「やまだいち」の山田一を重ねたマークは、山田一郎の名前から。戦時中、衛生兵だった山田一郎が衣服にこのマークをつけていたところ、ある将校に「支給されたものに書くのはよくないが、地方に戻ったらこれはよいマークになる」といわれたことがありました。戦後、やまだいちの商品を見たかつての将校(大会社の重役になっていた)がこのマークを覚えていて「あの山田君ではないか?」と連絡をもらったことがありました。また「安倍川もち」の販売を始めてしばらく経ったころ、「安倍川もち」の元祖といわれる「亀屋」宮崎家のご当主から「後継者だと思って、がんばってくれたまえ」と声をかけていただいたそうです。
昭和20年代の後半には、東京の三越で実演販売を行った際に、大変な人気で、食品課長自らが黄粉を手でまぶして「安倍川もち」を売ってくれたといいます。これらのことは、山田一郎にとって、大きな励みとなったといいます。戦後いち早く名物「安倍川もち」復興のために奔走し、生産技術の向上、販路の拡大に務めた人生でした。
<名物「安倍川もち」駅売りにて復活>
昭和25年3月17日、「静岡名物安倍川もち」「静岡名物安倍川もち」の呼び声で駅売りされる風景が、NHKラジオで全国放送されました。戦後はじめて、静岡駅で「安倍川もち」が販売されたのです。一箱50円、小川龍彦氏による包装紙で包んで紐で結び、駅構内での立ち売りによる販売でした。購入した列車の乗客がお弁当のようにその場で開いて食べ始めるという光景も、当時見られたそうです。
戦後、鷹匠町で喫茶店を営みながら、「安倍川もち」の復活を目指した山田一郎でしたが、実現までには数々の苦労がありました。当時はまだ統制経済の時代、菓子原材料の配給の申請をしてもなかなか許可がおりませんでした。そんな中でも全国各地で少しずつ名物復活の兆しが見られ、何としても静岡名物「安倍川もち」を復活させたいという気運が高まっていました。
昭和24年には当時の静岡市長(増田茂氏)を会長に「安倍川もち保存振興会」を設立。当時の静岡新聞編集局長であった重田光晴氏や静岡県経済部長高見三郎氏の協力を得て、食糧庁との交渉にあたりました。営業用の食糧配給の許可はなかなか下りませんでしたが、昭和25年2月ようやく特別配給の許可が下り、「安倍川もち」の生産にこぎつけました。官民挙げての力添えを得て、昭和25年3月17日、駅という公共性のある場所での販売にこぎ出すことに成功しました。「安倍川もち」の復活は、まさに静岡の復興を象徴するできごとだったのです。
<皇族の方々に愛される味>
やまだいちの「安倍川もち」は、天皇皇后両陛下はじめ、皇族の皆様にも幾度となくお買い上げいただいています。
昭和32年4月12日には、昭和天皇・香淳皇后が、岐阜県に植樹祭のため行幸された帰途、静岡にご停車のうえ「安倍川もち」をお買い上げになりました。昭和28年、昭和31年に続き、3度目の静岡駅頭でのお買い上げでした。
また、昭和34年にはご成婚直後の皇太子ご夫妻(今上天皇・皇后両陛下)にお買い上げ賜りました。
昭和40年代に下田市の須崎御用邸が建設中の折には、視察に来られた香淳皇后が「安倍川もち」をご所望になり、下田までお届けしたというエピソードも残っています。
平成3年の高校総体の際には皇太子殿下につきたての安倍川もちをご賞味いただきました。
平成6年、今上天皇・皇后陛下、静岡県行幸の折には、姉妹品「野趣村情」をお買い上げ賜りました。
この他にも、「安倍川もち」は多くの皇族の方々に好まれご賞味いただいています。