岐阜銘菓「柿羊羹」を生み出した大垣と柿の因縁は深く、もともと西美濃一帯は柿の産地で、柿羊羹の原料である堂上蜂屋柿は、岐阜県原産の渋柿では最高品質といわれ、遠く平安時代の昔より、その極上の甘さから「干柿一個に米一升」と言うように破格の扱いで年貢の代わりに納められていました。
その為この柿は誇りをもって朝廷に献上したところから、昇殿を許された殿上人(堂上)の名をかぶせて「堂上蜂屋柿」と呼ぶようになりました。
また、歴史的にも柿にまつわる話が多く、茶人でもあった豊臣秀吉は、わざわざ大垣地方から干し柿を取り寄せて茶会を開いたとか、関が原の合戦の際には、徳川家康が当時呂久川(現在の揖斐川)まで進軍して来たのを迎えた地元の農民が、大きな柿を献上したところ家康は「われ戦わずして大柿(大垣)を得たり」と喜んで全軍を鼓舞したと言う話は有名です。
柿羊羹の槌谷は、今から250余年前、創業宝暦五年(1755年)薩摩義士による宝暦治水工事が完成した翌年に、大垣藩十万石のご城下で、園助という人が「柏屋光章」という屋号で店を開いたのが始まりです。
柿羊羹は四代目右助という人が天保九年(1838年)に、堂上蜂屋柿の濃密な甘味に注目して、これを羊羹の材料として利用する事に成功して創製しました。
竹の容器が使われるようになったのは、五代目祐斎の代の明治二十九年(1896年)からであり、親友で竹の研究家であった坪井伊助翁が「竹と柿は相性が良いから柿を植えると、竹も育ち、柿も甘味を増す、一挙両得だよ」のアドバイスを得て、柿羊羹独自の竹の容器を考案しました。
しかし、最初は竹筒に柿羊羹を流し込み、竹に彫刻をほどこしたり、漆塗り蒔絵にして中味を食べた後に、一輪挿しと再生利用できる凝ったものをつくっていましたが、筒は中身が取り出しにくく、結局お茶受けに出されたお客の一人が、箸でつついても中味が出ぬのに腹を立て「出て来ぬ羊羹が何になる!」と石に投げつけたところ、真っ二つに割れ、それで今の半割竹の容器が出来たと言われています。
明治天皇が岐阜県に行幸された折、当時の県知事が岐阜県の特産品ということで、この干柿が献上されました。この名誉な事を後世に伝えるために「御前白柿」と商品名を改めました。現在11月になりますとご予約を頂いて販売させて頂いております。